○憲法第24条の熱い思い

 

 

 

かつて結婚式で主賓スピーチを頼まれたことがありました。用意した案文が「ちょっと短いかな、話は短い方がよいかな」と思いながら、胸に手をやると、国会職員のいつもの習慣で内ポケットに入れていた『憲法・議事関係法規』がありました。パラパラめくっていると、憲法第24条に目が止まりました。

 

 日本国憲法第24条には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」とあります。なかなか良い文章ですよね。特に、婚姻の「維持」に若い頃は分からなかった労力を要すると気づいた私のような年代の人には()。これは「国民の義務」ですよね()。新郎新婦にはピンとこなかったかもしれませんが、実際にスピーチで使ったところ、新郎の御親族から、「憲法まで持ち出されてのスピーチ、ありがとうございました。」と。ちょっと、まあ、良かったかなと思いました。

 

 

 

素直に読んでもこの憲法第24条には、ある種の力強さを感じるのですが、この条文には、実に熱い思いが出発点としてあったのです。

 

 

 

この条文の誕生に大きく関わった人が、ベアテ・シロタ・ゴードン女史です。略歴を掲げます。「1923年、ウィーン生まれ。有名ピアニストだった父が東京音楽学校(現東京芸大)に招かれたことに伴い、一家で来日。515歳まで東京で暮らした。米国の大学に進学後に太平洋戦争が開戦。ニューヨークで米タイム誌に勤務していたころ、日本に残った両親の無事を知ってGHQの民間人要員に応募、45年に再来日した。」「25人の民政局員の中では最年少の22歳だった。憲法起草委員会では人権部門を担当。10年間の日本生活で、貧しい家の少女の身売りなどを見知っていたことから、女性の地位向上を提案。14条(法の下の平等)や24条(両性の平等)に反映された。」(ゴードンさんは、平成24年(2012年)1230日にお亡くなりになりました。これは、毎日新聞(H25.1.1)の訃報からの引用です。)

 

 

 

ベアテ・シロタ・ゴードンさんは、平成12(2000)52日(憲法記念日=参議院の誕生日の前日)に、参議院の憲法調査会に参考人、元連合国最高司令官総司令部(GHQ)民政局調査専門官として、元GHQ海軍少尉リチャード・A・プール氏とともに出席されました。私も、調査会の実際の現場に行ったのか、院内中継で見たのかは覚えてませんが、いずれにしろ話を聴いた記憶があります。

 

調査会でゴードンさんは次のように話し始めました。

 

「きょうは遠くから来た方もいると思います。しかし、私が一番遠いところから来たと思います。ニューヨーク市から来ました。憲法調査会が私を呼んでくださったことを大変光栄に思います。ありがとうございます。」「そして、憲法調査会ときょうのお客様の間にこんなに多くの女性も参加しているのは本当にうれしいです。これは第2次大戦の前には考えられなかったことですので、55年の後にこのようなことが実際に起こるというのは夢みたいです。女性参議院議員43人が今活躍していることは、本当におめでたいです。アメリカのセナト(上院)よりずっといいです。アメリカで女性はセナトに9人だけです。ですから、日本の女性たち、おめでとうございます。」

 

そうですね、ゴードンさんが日本で働いていたころの日本には、婦人参政権は認められていなかったんですよね。この時の女性参議院議員は43人。平成291211日現在では50人です。

 

 

 

ゴードンさんは憲法草案制定会議で条文案作成に取り組んだ様子を次のように語りました。

 

「私は、戦争の前に10 年間日本に住んでいましたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていました。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかったのです。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかったんです。そして、それを具体的に詳しく強く憲法に含めたかったんです。」「例えば、最初の私の草案には次のことを書きました。」「家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定さるべきである。」。ほかの条項には私は次のことを書きました。「妊婦と乳児の保育に当たっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は、法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に、成長することにおいて機会を与えられる。」。そしてまた、私は次の言葉を書きました。「養子にする場合には、夫と妻、両者の合意なしに、家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長男の単独相続権は廃止する。」(略)」

 

 

 

憲法第24条の原型は、かなり長かったんですね。その後、GHQ内での検討、日本側とのやりとりを経て、あの中身に落ち着いたわけです。日本側との交渉の最終局面について、次のように語っています。

 

34日にまた極秘の会議が開かれました。この会議に参加したのは民政局の運営委員会と日本政府の代表者でありました。私もその会議に呼ばれたのは、草案を書いたからではなく、通訳として呼ばれました。(略)」「10時に極秘会議が開かれました。会議が終わるまで部屋からは出られないことが命令されました。(略) 私は、会議が34時間で終わると思いました。しかし、最初からいろんな議論がありました。特に天皇制についての議論が長かったです。意味だけではなく、言葉の使い方、どういう字を使うか、全部議論になって、大騒ぎでした。日本側は、我々のつくった草案ではなく、日本政府がまた新しくつくった草案を基本にして、私たちは私たちでつくった草案を基本にして、それを比べるのは本当に複雑でした。日本側は英語がわからず、アメリカ側は日本語がわからないので、通訳の仕事はとても大変でした。日本政府が新しくつくられた憲法の条項を順番に翻訳しなければならず、そしてそれを運営委員会が読んで日本側に返答しなければならず、随分時間がつぶされました。」「私は通訳が速かったので、アメリカ側と日本側の両方の通訳をしました。日本側は私によい印象を持ちました。運営委員会議長ケーディス大佐はそれにすぐ気がつきました。夜中の2時に男女平等の条項がまた大変な議論になったのです。日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、また大騒ぎになりました。天皇制と同じように激しい議論になりました。もう随分遅く、みんな疲れていたので、ケーディス大佐は日本の代表者の私への好感をうまく使いたいと思いました。そして、こういうことを言いました。ベアテ・シロタさんは女性の権利を心から望んでいるので、それを可決しましょう。日本側は、私が男女平等の草案を書いたことを知らなかったので、ケーディス大佐がそれを言ったときに随分びっくりしました。そして、それではケーディス大佐が言うとおりにしましょうと言いました。それで、第24条が歴史になりました。」

 

 

 

ゴードンさんは、調査会での説明の最後に、次のように語っています。

 

「私は、日本の女性をすごく尊敬しています。日本の女性は賢いです。日本の女性はよく働きます。日本の女性の心と精神は強いです。」「私は専門家ではありません。私はシロタと申します。けれども素人でございます。私はお母さんでありおばあさんです。だから、私は子供と孫の将来について心配しています。平和がないと安心して生活ができないと思います。私は外人ですから、皆様日本人は私の声を聞かなくてもいいと思います。私は日本で投票できません。」「しかし、日本の女性の声を聞いていただきたいのです。私の耳に入っているのは、日本の女性の大数が憲法がいい、日本に合う憲法だと思っているということです。」「日本の憲法のおかげで日本の経済がすごく進歩しました。武器にお金を使わないで、そのお金をテクノロジー、教育、建築などのために使って、日本が世界の中で重要なパワーになりました。隣のアジアの国々も日本について安全な気持ちを持っています。日本の女性はそれをよくわかっています。」「だから、私は一つのお願いがあります。日本の女性の声を聞いてください。ありがとうございました。」

 

 

 

 国立国会図書館の国会会議録検索システムでこの日の会議録を読み返して、ゴードンさんの熱い気持ちを感じました。「親の強制」や「男性の支配」を排し、「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」に基づく婚姻を実現させる(この段階では、「同性婚」を意識し、それをどう評価するかまで考えていなかったのではないかと思います。)という考え方を日本が採用するきっかけとなった話を直接聞くことができたので、国会の参考人に来ていただいていて本当に良かったと思います。そして結婚式スピーチで憲法第24条を読み上げたことを改めて良かったなと思いました。