③被災者生活再建支援法

 

 

 

被災者生活再建支援法(平成10年法律第66号)

 

(第142回国会参第3号被災者生活再建支援法案(清水達雄君外6名))

 

 

 

問題の流れ

政策の流れ

政治の流れ

○問題の認識

▷阪神淡路大震災(平成7年(1995年)1月17日)

▷被災者の困窮。

▷「義援金」配分に策が尽き、納税者たる市民がかくも困窮しても「公的援助」をおこなわないのは「人間の国」か[1]

▷「震災に見舞われる恐れはどこも同じ」との危機感で全国知事会が一致団結[2]

○多様なアクターの様々なアイディア

○議論による修正、検討対象の選定

▷「市民=議員立法実現推進本部」の動きの中での市民立法(法案)の作成。

 (後に参議院法制局も)

▷全国知事会「災害相互支援基金構想」

▷自由民主党政調地震対策特別委員会(坂野重信委員長)地震保険共済等に関する小委員会(柿沢弘治小委員長)[3]

▷「日本を地震から守る国会議員の会」[4]

○政策形成に携わる人々の政策案の受入れの姿勢

▷震災被災者救済の世論

▷自社さ連立政権。平成10年(1998年)の段階で、自民は参で過半数を確保せず。

▷石川嘉延静岡県知事ら全国知事会の動き。

▷防災対策が求められる下町を選挙区する柿沢弘治代議士(自民党幹事長)らの動き。

▷関係法案が付託されていた参議院災害対策委員会の動き。

政 策 事 業 家 (policy entrepreneur) の 動 き

▷被災者である小田実氏(作家)、山村雅治氏(芦屋・多目的会場「山村サロン」経営者)、早川和男氏(神戸大学名誉教授(建築学)は、政府に公的援助を求める等の「大震災 声明の会」を設立し活動。弁護士伊賀與一氏と4人で「市民立法」の草案を作成。「市民=議員立法実現推進本部」の動きへ[5]。第140回国会参第5号「災害弔慰金の支給等に関する法律の一部を改正する法律案(田英夫君外5名)」に結実。本岡昭次参議院議員、山下芳生参議院議員らが、参議院災害対策特別委員会でも、この法案審査の推進派として動いた。

▷石川嘉延静岡県知事等全国知事会、坂野重信参議院議員、柿沢弘治代議士、野中広務代議士、中川智子代議士等の外、新進党・地震災害対策議員連盟事務局長赤羽一嘉代議士(野党3党案)らの動き。

▷浦田勝参議院災害対策委員長。特別委員会の理事懇談会での「勉強会」を重ねる。平成9年10月31日には、神戸へ委員派遣。同年12月10日には、議員、市民、知事会等が一堂に会する勉強会を行ったりしている。

 

 

 

「市民立法」の動きである被災者生活再建支援法について掲げる。

 

別に掲げる特定非営利活動促進法も「市民立法」であり、成立時期も若干早いのだが、小田実氏の新聞等での発言力の強さより、本法がその先駆けの印象が強いため、先にこの法律を扱う。①の法律のように、「政策の窓」モデルでの分析が論文の形でコンパクトにまとめたものが見当たらないので、若干記載が多くなってしまった感がある。

 

この法律の基礎は、全国知事会の「災害相互支援基金構想」であるというのが実態であろう。しかし、当初、大蔵省をはじめ省庁はこれに否定的であった。

 

その背景には、「私有財産は保険制度等により個人が自衛すべきものでその損害を国が補償することはできないという考え方」があり、被災者への金銭給付は、「個人補償」で、これを行わないというのが大原則であった。

 

市民側も「個人補償」ではなく、「公的支援」という言葉を使っていたのは、この考え方を意識したものと思われる。

 

この「公的支援」、すなわち生活基盤に著しい被害を受けた被災者が自立した生活を開始するために最低必要な資金を自力のみでは生活を再建することが困難な被災者に対して支給しようとするものは、私有財産の補償という考え方によるものではない金銭給付であるという道を開いたのは、やはり市民の粘り強い働きかけであろう[6]

 

浦田勝参議院災害対策委員長は、特別委員会の理事懇談会での「勉強会」を重ねる。これが、「政策の窓」をコツコツと叩き続ける場となったと考える。

 

平成9年(1997年)10月31日には、神戸への委員派遣を実施。同年12月10日には、参議院議員会館での勉強会として、①第140回国会参第5号「災害弔慰金の支給等に関する法律の一部を改正する法律案」(小田氏らの「市民=議員立法」)、②第141回国会参第6号「阪神・淡路大震災の被災者に対する支援に関する法律案」(新進、民主、太陽の野党3党案)、③全国知事会「災害相互支援基金案」、④自民党地震保険共済等小委員会「被災者生活再建支援基金法案」の関係者を招き、それらが一堂に会し、代表者が説明を行い、質疑を行った。

 

この勉強会につき、小田氏は、「議員と市民が対等に参加し、率直な意見交換をしたことは画期的だ」とし、本岡昭次参議院議員は、「公的支援の素材は出揃った。従来から重くのしかかっていた『個人補償』の問題も乗り越えた」とした[7]。この時の新聞報道の見出しは、「省庁の厚い壁破れず 先行き以前不透明」となっていたが、年明けには政府も公的支援を受け入れざるを得ないとの姿勢になったことから、この勉強会は、「政策の窓」が開いた瞬間の一つであったと考える[8]

 

浦田委員長から関係議員への働きかけもなされていたとされる。清水達雄参議院議員は、同委員会の自民党筆頭理事として、対政府も含めた調整を行い、自民、民主、公明、社民、自由、さきがけによる共同提案の参法の筆頭発議者となった。芦尾長司参議院議員、但馬久美参議院議員ら、同委員会理事等の動きもあった。

 

市民立法(法案持ち込み)、議員アンケート、賛同議員への法案提出要請、議院法制局の専門性付与等、提出法案を橋頭保としての働きかけが変革をもたらしたのである。

 



[1] 市民=議員立法実現推進本部+山村雅治『目録「市民立法」阪神・淡路大震災―市民が動いた!-』藤原書店、11頁。

[2] 平成10年(1998年)5月1日読売新聞。

[3] 平成9年(1997年)12月11日神戸新聞。

[4] 平成10年(1998年)5月12日朝日新聞。

[5] 市民=議員立法実現推進本部+山村雅治、前掲書、134頁。

[6] 「個人補償」、「公的支援」の考え方については、奥津伸「被災者生活再建支援法について」『ジュリスト(No.1138) 1998.7.15』1998年、参照。

[7] 小田氏の発言は。平成9年(1997年)12月11日神戸新聞。本岡議員のコメントは同日の朝日新聞。

[8] 前掲神戸新聞。