〇議事堂危機3発!?

 

国会議事堂は、昭和11年(1936年)11月に竣功しましたが、その年の2月、完成直前の議事堂に二・二六事件の軍隊が立てこもったのでした。この陸軍の一部の部隊の行動に対し、横須賀に鎮守府を置き、拠点の一つとしていた海軍は、横須賀鎮守府司令長官の米内光政(中将)、参謀長の井上成美(少将)がこれを”叛乱軍”と見なし、対応しようとしていたとのことです。

 

司馬遼太郎の『街道をゆく 三浦半島記』(朝日新聞出版)には、次のような、場合により議事堂が3発の砲撃で破壊されていたかもしれないとの記述があります。

 

「井上成美参謀長は、二・二六事件の変報に接した最初から態度は明快だった。かれらを”叛乱軍”として規定し、米内も承認した。とりあえず軽巡洋艦「那珂」に陸戦隊をのせて芝浦に急行させた。」「一方、土佐の宿毛沖での演習を終えた連合艦隊のうち、第一艦隊が東京湾に入港した。」「阿川弘之氏の『井上成美』(新潮社刊)によると、旗艦「長門」以下の各艦が錨を入れたのは品川お台場沖で、各艦の主砲は、”叛乱軍”の占拠する国会議事堂に照準されていたという。」「このとき昭和天皇は満34歳で、この事件に激怒し、陸軍の要人たちを鼻白ませた。阿川弘之氏の『山本五十六』(新潮社刊)によれば、お台場沖の「長門」に座乗していた司令長官高橋三吉(大将)は、後日、「陸軍の出方によって、もし決断が下されたら、議事堂は三発で吹き飛んだろう。」と語ったという。」「いわば陸海軍が相撃つという寸前だが、そこまで両者が対立したなどは、当時、消息通以外は知らなかった。元来、海軍は政治に対しては”沈黙の海軍(サイレント・ネイビー)”でありつづけてきたからである。」

 

完成直前の議事堂が破壊されることは避けられましたが、その後の議事堂での議論でも、日本が戦争への道をたどることは避けられませんでした。