○「市民立法」の系譜

 

 

 

「市民立法」とは、平成8年(1996年)あたりからの小田実らの阪神淡路大震災の災害被災者支援のための「市民=議員立法」の運動や、平成9年(1997年)の「市民立法機構」の設立等の取組みの名称として使われるものである。

 

 

 

これらは、市民団体等が、実現させようとする施策を単に訴えるだけのものではない。市民運動の意義は、「問題が起きたとき、真っ先にそれに気づかされるのは、中央官僚でもなければ、国会議員でもない。現場の人々である。(略)そうした人々の声ができるだけ直接に届くことが必要なのである[1]。」とされるが、「こういう問題に直面している。これを解決せよ。」という訴えはキングダンの「政策の窓」の「問題の流れ」で問題を認識し、「政治の流れ」へ働きかけるだけの存在である。これに対し、「市民立法」の取組みは、市民団体等が、実現させようとする施策を法律案(あるいは要綱)の形で議員等に持ち込むものである。すなわち「政策の流れ」にも関わっていくものなのである。

 

 

 

ここで少し、この「市民立法」の概念について触れたい。本論では、「問題の流れ」のみならず「政策の流れ」にも関わって、法律案、あるいはその要綱等を議員に持ち込む取組みを、きっかけとなった小田氏らの取組みに倣って「市民立法」と言うこととしている。取組み、やり方について注目しての言葉なので、その言葉の一部分である「市民」の概念には深くこだわるものではない。極端なことを言うと、議員、そして官僚以外の者が全て「市民立法」の担い手となり得る「市民」と言えなくない。

 

 

 

とは言うものの、議員立法の役割の拡大は、個人の多様なニーズや質の追求の発生への対応を起因とし、「基本法類」は、国の取組みのうち、理念さえ整理されていない政策分野への対応を行うものと考えること等から、ここで「市民立法」を行う主体は、既存の利益と直結している存在ではない者であることが想定される。それは、勝田が「市民とは政治過程に遅れて参入を目指す潜在的な政治集団」とし、「個別利益ではなく公益を求めるもの、政治的資源に乏しく参入のルートをもつことができなかった社会的な弱者、集団形成による圧力を生む出すことが難しい少数者等を政治主体として想定」とするのと近いかもしれない[2]

 

 

 

小田は、「私は仲間の市民とともに96年、まず、公的援助を求める政策をつくり、その実現を求めた。しかし、政治は動かなかった。そして、言った。「法律がない」。それなら私たち市民の側で法律をつくろう-実際、私たちは法律をつくった。しかし、この国の今の制度では、「市民法案」はそのまま法律にはならない。私たちは法案を議員に送り、この「市民法案」に賛同する「市民=議員立法」運動を2年余にわたって展開して、私たちの「市民法案」はそのままのかたちで法律にならなかったが、それがキッカケとなって、98年、不十分ながら公的援助の法律はでき上がった。(略)この過程のなかで、新しい「主権在民」の政治のかたちが見えて来た。」としている[3]

 

 

 

小田らの動きが被災者生活再建法(平成10年法律66号)の成立につながったのは、阪神大震災後の未曾有の局面で、なんとか救済策の実現をという「政治の流れ」があったのも要因であろう。「政策の窓」の開放がなされる条件がそろっていたと言えるが、市民が「政策の流れ」にも関わるという取組みを手に、小田をはじめとする複数の「政策事業家」の「政治の流れ」への働きかけも含めた動きがあって初めて、それまで国は行わないとされて来た「個人補償」的なものが実施されるという大胆な政策転換がもたらされたと言えよう[4]

 

 

 

「市民立法機構」の設立にかかわった須田春海の取り組みは、30年以上の市民運動の帰結とも言うべき経緯が見られる。飛鳥田横浜市政、美濃部都政等革新自治体での市民参加の動きの時期に、須田は、直接請求制度を活用した市民運動に参加した。そして、直接請求で都議会に提案させることに成功した条例案があっさりと否決された経験等から、「審議請求にもならずせいぜい議案提出の義務づけでしかない日本の直接請求制度の成り立ちを学び、そのプロセスで市民立法という表現を使い出した」と言う[5]。国政についても、「請願法に基づく請願がたった一つの制度ということになる。私たちは60年安保でこの請願を無数に繰り返した。その空しさが、街頭行動の過激化を招き不幸な事態を生んでしまった。このことは忘れることはできない」としている[6]。このように、自治体における直接請求制度、国政における請願制度等の我が国の直接民主主義の手法の限界を学ぶ中で、「市民立法」の動きにたどり着いたとされる。

 

 

 

市民側には、「第一段階 問題との出合い」に対する「多様なアドボカシーセンター」、「第二段階 問題の内容の把握」に対する「専門的補助機関・研究機関」、「第三段階 問題解決の努力」に対する「市民立法サポート機関」の整備が必要という考えのもと、須田自身、第一段階の市民運動全国センターを主宰し、第二段階の市民がつくる政策調査会にかかわり、第三段階の「市民立法機構」を作ったとされる[7]。「政策の窓」モデルの3つの流れに対応しているようにも見えるが、平成9年5月に発足した「市民立法機構」は、「市民から提案された政策案や法律案が、市民の内部でおおむねコンセンサスが得」るための「一般市民、労働界、経済界など、市民相互が対話と共同作業をする場」であり、「情報の結節点の役割を果たすもの」として、時代のツールを活用したネットワーク型組織とされており、「政策の窓」モデルから言うと、まさに「議論による修正、検討対象の選定」を行う「政策の流れ」に該当するものと思われる[8]

 

 

 

「政治の流れ」に関しては、須田は、平成5年の細川連立政権発足後の政治的状況について、「政党の流動化は、特定のテーマに関心をもつ会派を超えた議員が交流しやすい状況をつくり出した。その議員集団と市民団体が意見交換を繰り返し、合意をつくり出すことが可能となり出した」と評価し、いわゆるNPO法、ダイオキシン法、フロン回収法をその例としている[9]。小田実氏の「市民=議員立法」も、同時期の動きで、当初の法案が、当時の与党社会党の田英夫氏を筆頭発議者とする超党派のものであったが、こうした政治的状況を背景としていると言えよう。「市民立法」の動きについて、須田は、「直接民主主義か間接民主主義かの二者択一的論争に終止符を打ち、両者の特性を生かした、いわゆる「思慮深い民主主義」の構築を目指すと言える。」としているが、そうしたことを考えさせる「政治の流れ」があったのも事実である。

 

 

 

加藤秀樹は、「90年代後半から2000年代にかけて、議員立法、法案作成において与野党双方の議員の動きが目立ったもの、市民団体の活動が法律の成立に大きい影響力を持ったものが多く見られた。」とし、前掲の3法律に加え、「介護保険関連法」(平成9年(1997年))、「自然エネルギー促進法」(平成14年(2002年))を掲げている[10]。このうち「介護保険関連法」について加藤は、「「一万人委員会」と呼ばれた市民団体や個人の連合体が大きい役割を果たした。「一万人委員会」は介護に関する活動をしていた医療、福祉団体を軸に研究者、行政官、などが幅広く連携したネットワーク型組織だった。そして、介護制度に関する様々な提言に加え少人数の研究会やシンポジウムの開催、行政機関や政治家に対する働きかけなど、多様な活動を行った。様々な知識や経験を持った多数の人が緩やかに結びついた組織だったからこそできたことだと考えられる。」としている。

 

 

 

加藤は、これらに共通する特色として、次のことをあげている。㋐多くの団体や個人の連携による活動であること、㋑その中に、現場に詳しい者から行政や法律の専門知識を持つ者、さらには政治家、マスメディアとの人的つながりを通してこれらに対する働きかけの経験を持つ者など、多様なノウハウがあったこと、㋒従って現場の状況をふまえた情報提供にとどまらず、制度設計や法案の骨格の提言、それらを広めるためのシンポジウム、アンケート、署名集め、官庁や政治家への働きかけなど広範な活動を連続して行えたこと、㋓政府や国会議員に対して白か黒かという対決的な姿勢で臨むのではなく、提言の何割かの実現でも可とする現実的な働きかけを行ったこと。

 

 

 

そして、加藤は、「その後、このような市民のネットワークが大きい影響力を持つ立法はあまり報じられていないが、これら㋐~㋓の特色を持つ活動はさらに広がりを持っている。その後つけ加わったネット上での連絡や意見交換の浸透を考えると、政治や立法に及ぼす社会的環境として重要な要素である。」としている[11]

 

 

 

「政策の窓」モデルからすれば、㋑、㋒の専門的知識や法案の骨格の提言等は、「政策の流れ」に関するものであり、「市民立法機構」も目指したものである。㋑や㋒の政治家への働きかけや、㋓の態度等は、「政治の流れ」への関与をもたらす「政策事業家」の対応も含むものと言えよう。

 

 

 

㋑、㋒に関し、「市民立法」の「政策の流れ」への参画は、それを支える「多元的専門性」の参加によってもたらされた点を改めて見てみる。「一万人委員会」がそうであるし、小田氏の「市民立法」の草案作成には弁護士が関わっている[12]。市民運動出身の須田と第2次臨時行政調査会長の秘書で、経団連職員であった並河信乃が中心人物であった「市民立法機構」は、多くの関係者を巻き込むことで「政策の流れ」の場としてある程度実質的なものと成り得た。

 

 

 

㋓に関する部分では、「市民立法機構」では、利益の対立の調整、克服の困難さに直面し、「あえていう。市民立法の真髄は妥協のアートにある、と。」と出版した本で訴えざるを得ない状況にあった[13]。理想への固執への対応の苦慮がうかがえる。機構の文書には官僚機構に対する反発や対抗心も見られる。肩に力の入った場作りが目指されたのではないかと考える。「市民立法機構」は、設立時より毎年総会にあわせたフォーラムを開催し、1年間の活動報告や焦点となるテーマについて議論を深める等してきたが、平成15年(2002年)からは、「市民と議員の条例づくり交流会議」と統合してフォーラムを行うようになったとされる[14]。「市民と議会の条例づくり交流会議」は、全国各地の「議会基本条例」の制定や、それを中心にした議会改革の取組みで重要な役割を果たしているが、「市民立法機構」の方は表立った動きは見られなくなっていったのである。議員立法の提出等をより円滑にしようとする取組みである「市民立法機構」のその後の動きは、順調に展開したとは言い難いものの一つであるが、関連するいくつかの動きが、その後の「政策事業家」を民間の立場で担うことを正面から取り組もうという動きに繋がっていくのである。

 



[1] 杉田敦「市民立法についての覚書」『市民立法入門』2001年、ぎょうせい、43頁。

[2] 勝田美穂『市民立法の研究』法律文化社、2017年。こうした主体が、労組や業界団体のようにある程度の影響力を持つようになると、「市民を卒業する」こともあり得るように思う。本論は、今日の政治の担い手である「市民」という位置づけで論を進めるものではない。松下圭一や五十嵐敬喜のように、近代政治を「時代を画す」観点から整理し、五十嵐の、社会構造が都市型社会に転換する中で、分権化・国際化・文化化の政策が市民政治の類型で行われ、それに基づくあるべき姿が存在するという分析と比べると、不十分との指摘もあろう。しかし、議員立法に対する評価が高くない状況では、それを印象深く覆すだけでも有意義ではないかと考える。五十嵐敬喜・野田和雄・萩原淳司『都市計画法改正―「土地総有」の提言―』第一法規、平成21年参照。

[3] 小田実「西雷東騒」『毎日新聞』平成15年(2003年)9月30日)

[4] 「政策事業家」としては、他に「市民立法」側に近い田英夫参議院議員、本岡昭次参議院議員等があげられるが、この問題を「勉強会」を重ねることで「政策の窓」の開放の時期をもたらした浦田勝参議院災害対策特別委員長、財政当局等と調整を行った清水達夫同委員会与党筆頭理事らも該当すると考える。詳しくは、市民=議員立法実現推進本部+山村雅治『目録「市民立法」阪神・淡路大震災―市民が動いた!-』1999年、藤原書店。参議院事務局において、委員会の運営補佐の責任者は主任を呼ばれるが、当時論者は主任1年目で、参議院災害対策特別委員会の担当であった。

[5] 須田春海「市民立法の考え方」『市民立法入門』2001年、ぎょうせい、5、6、8頁。

[6] 須田、前掲書、20頁。

[7] 須田、前掲書、24~26頁。

[8] 並河信乃「はしがき」『市民立法入門』、前掲書。

[9] それぞれ、特定非営利活動促進法(平成10年法第7号)、ダイオキシン類対策特別措置法(平成11年法第105号)、特定製品に係るフロン類の回収及び破壊の実施の確保等に関する法律(平成13年法第64号)のこと。

[10] 介護保険法(平成9年法第123号)、電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法(平成14年法第62号)のことと考える。

[11] 加藤秀樹「立法システムとNPO、シンクタンク」西原博史編『立法システムの再構築 立法学のフロンティア2』ナカニシヤ出版、2014年、163~164頁。

[12] 阪神淡路大震災の被災者である小田実氏(作家)、山村雅治氏(芦屋・多目的会場「山村サロン」経営者)、早川和男氏(神戸大学名誉教授(建築学)は、政府に公的援助を求める等の「大震災 声明の会」を設立し活動をしていたが、早川氏の知人の弁護士伊賀與一氏と4人で 1996年5月25日に山村サロンの喫茶で「市民立法」の草案を作ったとされる。市民=議員立法実現推進本部+山村雅治、前掲書、134頁。

[13]  「市民立法」から「ロビイスト」への項で述べる。

[14] 市民立法機構ホームページ(http://www.citizens-i.org/forum.html)より

 論者の指導教官の廣瀬克哉教授は、「市民と議員の条例づくり交流会議」のワーキンググループ「自治体議会改革フォーラム」呼びかけ人代表でもあり、「交流会議」の活動の中心的な存在である。