○多元的専門性(①シンクタンク等)

 

 

 

「市民立法」の動きは、「政策の流れ」に市民が参画した点で意義が大きいが、それを支える、政策の決定、実行に必要な専門性を有する者の参加があった。

 

日本における国家運営の政策の決定、実行に必要な専門性については、行政の官僚機構に大きく依存して来たのが実態であるが、今日においては、官僚機構のみならず、それ以外の、より多様な存在の関わりを必要とするようになっている。まだまだ発展途上の感が否めないが、その展開について次に述べたい。

 

 

 

①シンクタンク等

 

民間のシンクタンク、東京財団のホームページ(平成22年(2010年)12月6日付)には、「水源林売買規制へ向け法案提出」として、「東京財団がかねてより警鐘を鳴らしてきた日本各地での森林売買の在り方について、2010年11月30日、自民党有志議員が「森林法の一部を改正する法律案」及び「地下水の利用の規制に関する緊急措置法案」を国会に提出しました。この法案作成の背景には、当財団が発表した2つの提言書『日本の水源林の危機』(2009年)、『グローバル化する国土資源(土・緑・水)と土地制度の盲点』(2010年)による問題提起がありました」とある。この「自民党有志議員」(当時は野党)の一人、高市早苗代議士は、平成22年4月、コラム「日本の水源林を守る議院勉強会発足!」で「一部メディアがこの問題をとりあげ、東京財団が「日本の水源林の危機」というレポートを発表」と言及している[1]

 

 

 

多元的専門性と言って、まず思いつくのがシンクタンクであろう。このような記事を見ると、それなりに機能しているように見えるが、実はそうは簡単な話ではないようだ。日本のシンクタンクの歩みを鈴木崇弘の文献をもとに表2として掲げる[2]

 

 

 

鈴木は、「1980年代までの日本のシンクタンク」は、「単なる調査研究機関」であったとしている[3]。その一般的な特徴を、「主流が営利法人である」、「親企業、親組織への依存が高く、独立性が低い」、「研究成果も非公開性が高い。公益性が高くない」、「資金がでる研究しかしない」等と分析し、「日本のシンクタンクは、行政を中心とする政策形成や政治のしくみを大きく変えるためではなく、あくまでも既存の仕組みや制度を補完するものとして導入された」もので、「社会の中での役割という視点より、その個々の組織の視点から考えられるようになった面が強い」としている[4]

 

 

 

この様相が変わるのが、平成9年(1997年)前後で、「行政や企業から独立した形で、政策研究をはじめとするさまざまな政策に関わる活動」を行う「民間非営利独立型のシンクタンク的な複数の組織」が、「ひとつの塊としてできた」としている。背景としては、「社会の成熟化やバブル経済およびその崩壊の中で、行政(官)主導による社会運営上の問題と限界がみえてきた」ことがあるとする。

 

 

 

鈴木は、同時期の大学等の動きにも着目する。学部や大学院レベルで政策に関する部門ができ、日本公共政策学会(平成8年(1996年)設立)、政策分析ネットワーク(平成11年(1999年)設立)、日本政策情報学会(平成17年(2005年)設立)や日本評価学会(平成12年(2000年)設立)等のような政策に関わる学会、日本NPO学会(平成11年(1999年)設立)、日本ボランティア学会(平成10年(1998年)設立)等の非営利活動に関する学会ができた。これらは、「日本社会が従来の枠組みを超えて変化していかなければいけない、という社会における大きな方向の流れ、行政以外のアクターの政策形成への参加や政策の質の向上の必要性に関する認識の高まり、日本社会で高まりつつある閉塞感や従来の手法での手詰まり感とも深く関わっていたといえよう」としている[5]

 

 

 

 

ところが、これらのうち、「政策形成における新たなるアクターの出現、多元化でもあった」とされる民間非営利独立系のシンクタンクは、「それらを支援・育成する社会的な土壌や財政や組織運営上の基盤が脆弱であり、それらが社会的に確実に根付く前に、2004年前半ごろまでにその多くは組織解散や実質上の活動停止、弱体化、あるいは変質してしまった」とされる[6]

 

 

 

また、その後、政党シンクタンクの登場ということがあったが、高い経済成長率路線で増税を抑えることもできるとする「上げ潮政策」を支える等の影響力を持った自民党系の「シンクタンク2005・日本」は、「自民党が野党となったため、運営が厳しくなり、2011年2月をもって正式に解散」となった。民主党系の「プラトン」も執行部が代わり、与党になる中で休眠状態となり、2009年に活動を停止した。鈴木は、政党シンクタンクについて、「党の執行部が短期間に何度も変わり、党とシンクタンクの関係性が不安定」、「選挙実施の可能性とその不確実さによる選挙への重点的費用配分とそれにともなう他の費用の抑制。つまり研究より選挙」、「成果をだすのに一定の時間が必要な「研究」と一瞬で成果が変わる「政局」とのギャップの存在」、「議員と党職員、議員秘書等の間の役割分担における摩擦」、「政党の中にはさまざまな考えの議員が混在」等の運営に関する課題や問題点を掲げている[7]。「プラトン」に勤務した者からも「シンクタンクにかけるお金があれば、選挙に使え、ポスターや何やらにまわせということもある。また、上に立つ人が替わると、シンクタンク自身について、派閥的な見方がされなくない。「君には思うところはないんだけれど・・・」と。それで使わなくなるということがある」等の発言があった[8]

 

 

 

このように、独立系シンクタンクの衰退や政党シンクタンクの活動停止があり、日本のシンクタンクには、右肩上がりの成長というものは見られなかったのである。

 

 

 

そうした状況ではあるが、その後も、いくつかの政策研究を扱うシンクタンクが設立されて来ている。ブームと言うような動きではないが、それぞれに自体の継続的な運営を可能とするビジネスモデルを追求してのものと思われる。また、官僚を辞した人材が政策に関わる活動の場として設けられた「政策工房」等の動きもある。直接的な政策形成のサポートの場での活躍の印象が強いが、政策研究の部分の展開も注目される。

 

 

 

研究成果を公表し、政策形成に影響を与えるというようなことはなかなか難しい。しかし、研究者、学会等による意欲的な研究成果の発表の場の継続的な確保は、時代の流れに即した政策の基礎の提供として不可欠である。また、それらの機能も併せ持つシンクタンクの一層の活動も期待される。

 



[1] 平成22年4月22日付「早苗コラム」(高市議員のウェイブサイト)に立案に向けた動きにつき記載がある。

[2] 鈴木崇弘「日本になぜ(米国型)シンクタンクが育たなかったのか?」『季刊 政策・経営研究 2011vol.2』三菱UFJリサーチ&コンサルティング、2011年。鈴木の32頁の表をもとに、鈴木の本文を参考に筆者加筆。

[3] 鈴木、前掲書32頁。

[4] 鈴木、前掲書34頁。

[5] 鈴木、前掲書37頁。

[6] 鈴木、前掲書39~40頁。ただ、「東京財団は、その組織と比較すれば、現在も相対的に米国のシンクタンク的な活動をしている面もあるといえる」とされる

[7] 鈴木、前掲書42~43頁。

[8] 坂田顕一氏(元民主シンクタンク勤務)への筆者によるインタビュー(平成26年8月11日)。