○五箇条の御誓文「広ク会議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」の読み方

 

<明治150年に考える>

 

 

 

http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F787614&contentNo=39&outputScale=4

 

「五箇条の御誓文」(太政官日誌 慶応4年 第12巻 (NDL-d)

 

 

 

 営繕管財局編纂『帝国議会議事堂竣功式典記録』(昭和123月)では、議事堂竣功に至るまでの経緯の発端として、明治元年の五箇条の御誓文を掲げています。「畏くも 明治天皇におかせられては明治元年の五箇条の御誓文を御下しになって「広ク会議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と宣はせ給い、その後明治1410月には明治23年を期し議員を召し国会を開かるる旨の勅諭を下し給はったのである。」「この勅諭によって我が国に帝国議会が開かれることになったので、それがためにはこれを開く議事堂を建てなければならないと云うことになったのである。」としています。

 

 

 

 同様な趣旨の位置づけは、昭和天皇の、五箇条の御誓文により「民主主義の精神は明治天皇の採用されたところであって、決して輸入のものではない」との発言にも見られます。

 

天皇の「人間宣言」と称される昭和21年年頭の詔書は、次のように始まります。

 

「茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初(はじめ)国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、

 

 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ

 

 (略) 

 

 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

 

叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。

 

(略)

 

朕ト爾(なんじ)等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。(略)」

 

 この新年の詔書は、五箇条の御誓文から始まりますが、一般には、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、」以降の部分が天皇の神格を否定するものとして注目され、「人間宣言」と呼ばれるようになったと考えます。しかし、宮内庁編修『昭和天皇実録第10』東京書籍(巻35)(5~6頁)には、「天皇はこの詔書の目的について、昭和52年8月23日、那須御用邸において宮内記者会員とお会いした際、五箇条の御誓文を国民に示すことが第1の目的であったとされ、民主主義の精神は明治天皇の採用されたところであって、決して輸入のものではないことを示し、国民に誇りを忘れさせないように詔書を発した旨を御回想になる。」とあるのです。

 

 

 

 現在の衆参の国会議員には、関係法規や議員略歴等を示した「衆議院要覧」(甲の1~3、乙)、「参議院要覧」(Ⅰ~Ⅲ)が配られます。衆議院本会議では、衆議院議長の机に「衆議院要覧」が積み上げられています。この冒頭には、日本国憲法が掲げられています。しかし、戦前の「衆議院要覧」「貴族院要覧」の最初に掲げられているのは、「五箇条の御誓文」です。こうしたことからも、「広ク会議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」が議会の制度の中で、重要な位置づけであったことが認識されます。

 

 

 

 

これに対し、日本国憲法の制定過程にも関与した佐藤功になると、明治憲法との違いの強調もあるでしょうが、次のような話になります。(佐藤功『日本国憲法概説』学陽書房(全訂第2版、昭和56年)(281~282頁)。)

 

「明治維新の憲法史的意味としては、王政復古・藩制度の廃止・階級制度の廃止などのほか、「公議主義」の採用が挙げられる。」「ただし、この「公議主義」は近代的な議会主義の思想とは異なるものであった。すなわち、幕末において幕府の権威が機器に直面するに至ると、公議主義が唱えられ、幕府は「公議興論」すなわち公議主義の名において、従来の独裁主義を修正・緩和せざるを得なくなり、徳川慶喜の大政奉還の上表において「従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ尽クシ聖断ヲ仰ギ・・・」と述べられ、また後に五箇条の御誓文における「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という宣言ともなった。」「しかし、明治維新後において、新政府の最大の課題は、いまだなお残存していた藩制度の基礎の上に、すなわち諸藩の間の対立と抗争の上に均衡を保ちながら、外国の圧迫を克服しようとするにあったために、(略)」「すなわち、その公議主義の採用は近代的議会主義の採用ではなく、そこで意図されたのはあくまで封建的な藩制度を基礎とするいわば国政諮問会議の設置にすぎなかった。」としています。

 

 

 

佐藤の「封建的な藩制度を基礎とするいわば国政諮問会議」の記述は、次の五箇条の御誓文に関する国立国会図書館の「福岡孝弟(ふくおかたかちか)の修正案が出され、「列侯会議」という語が追加されました。」という記述にも関連すると思われます。

 

 

 

国立国会図書館国際子ども図書館の「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」「五箇条の誓文/五箇条の御誓文」のところには、次の記述があります。

 

http://www.kodomo.go.jp/yareki/archive/archive_04.html

 

「明治新政府は、戊辰戦争(ぼしんせんそう)が進む中で、まず、慶応41868)年1月には、諸外国に対して、「王政復古」と「天皇の外交主権掌握」を告げました。そして、国内に向けて314日に出されたのが、天皇を中心とする新しい政治の基本を示す「五箇条の誓文」です。

 

誓文の最初の案は、慶応41868)年1月に福井藩の由利公正(ゆりきみまさ)が考えた「議事之体大意」というもので、公家や大名による会議の原則を述べたものでした。

 

次に、土佐藩の福岡孝弟(ふくおかたかちか)の修正案が出され、「列侯会議」という語が追加されました。これは、公家や大名が集まって会議を開き、国政の方針を決めるという構想でした。

 

最後に、木戸孝允(きどたかよし)が中心となり、大名中心でなく、天皇中心であることを示すべく、第一条の冒頭から、「列侯会議」の文言を削り「広く会議を興し」と修正しました。

 

誓文は、明治天皇が京都御所の紫宸殿(ししんでん)で、公家や大名を率いて神に誓うという形で出されました。このような儀式は、国家の中心に天皇を置くことを示すものでした。」

 

 

 

ここで、この時期の動きを整理して示してみましょう。

 

 慶応3年(1867年)年初、土佐藩の後藤象二郎は、坂本龍馬と大政奉還策を協議したと言われます。(以下、松浦玲『坂本龍馬』岩波新書、2008年を中心に。)

 

同年7月に、土佐藩が大政奉還・王政復古を通じて、公議政体へ移行すべく提起した連携案に薩摩藩が同調した「薩土盟約」が結ばれます。後藤象二郎が主導し、坂本龍馬も立ち会ったとされます。その中には、次のような内容があります。「一 天下ノ大政ヲ議定スル全権ハ朝廷ニ在リ我皇国ノ制度法則一切之万機、京師ノ議事堂ヨリ出ズルヲ要ス」、「一 議事院ヲ建立スルハ宜ク諸藩ヨリ其入費ヲ貢献スベシ」、「一 議事院上下ヲ分チ、議事官ハ上公卿ヨリ下陪臣庶民ニ至ルマテ正義純粋ノ者ヲ撰挙シ、尚且諸侯モ自ラ其職掌ニヨリテ上院ノ任ニ充ツ」(「海援隊日誌」より。松浦、前掲書、149頁)。「議事堂」、「議事院」とともに、上下の2院制の記述があり、英国型の議会を想定していることがわかります。

 

 倒幕を意識していた薩摩藩と、大政奉還と公議政体移行を目指す勢力の駆け引きの中、同年10月に土佐藩は大政奉還を建白。これを受け、徳川慶喜は、大政奉還を行います。その後、土佐藩の方針に従い、後藤の意向で、坂本龍馬は、福井藩で由利公正と会談。越前福井藩は、幕末の四賢侯と言われた松平春嶽の下、公武合体派が主流でした。由利公正は、後に五箇条の御誓文の原案を作成しますが、この会談の後、坂本龍馬が書いたとされる「八義」が残っています。「八義」を国会図書館では、「新政府綱領八策」とし、それ以前に書かれたとされる「船中八策」(現物や記録が残っていない)と同内容の位置づけもしています。

 

 

(慶応3年(1867年)11月『新政府綱領八策』【石田英吉関係文書1-5】「亡友帖」所収 (NDL-d)

 

 この第五義にも、「上下議政所」とあり、英国型の議会を意識していると言えるでしょう。これを書いた数日後の11月15日に坂本龍馬は見廻組に襲撃され死亡します。

 

 坂本龍馬が由利公正と会談した10月に、後藤象二郎は、長岡謙吉をアーネスト・サトウのもとに派遣し、英国議会のことを聞き出そうとしています。後藤の頭には、英国型議会があったと考えます。

 

 その翌年、慶応4年=明治元年(1868年)1月には、鳥羽・伏見の戦いが生じ、倒幕勢力が政権を握ります。そして3月14日に五箇条の御誓文が書かれるのです。戊辰戦争の最中のことです。

 

 公武合体論者であった由利公正、土佐藩の福岡孝弟が、倒幕路線に踏み切った後の明治政府で、「列侯会議」等の記述を行ったことは、興味深いと思いますが、当面の課題への対応という意識だったのではないかと思います。上下院の上院部分だけの意識だったのかは不明です。一方、後藤象二郎、坂本龍馬は、「薩土盟約」や「新政府綱領八策」にあるように、明確に上下院の英国型議会を意識していたと言えましょう。後の自由民権運動で活躍する板垣退助も土佐藩の出身で、後藤の下で動いていました。

 

 最終的に木戸孝允が中心となり、第一条の冒頭から、「列侯会議」の文言を削り「広く会議を興し」と修正しました。「大名中心でなく、天皇中心であることを示すべく」だったとされてます。実際そうだったのかもしれませんが、結果として、この文言が、自由民権運動の基礎となったり、日本の「民主主義」の基礎とされたりすることとなりました。

 

 福澤諭吉の『西洋事情』(慶応27月、18668月)では、英国の政治機構の説明がなされています。これを坂本龍馬や由利公正が意識したとしてもおかしくないと思います。

 

 

 

佐藤は、前掲書で次のように続けます。「「富国強兵」を実現する強力な中央集権的な中央政府の確立のため、「イギリス式の典型的な議院内閣制の採用を主張した大隈重信一派を政府から追放した「明治14年の政変」とともに、岩倉具視が確立した憲法制定方針は、前にも述べたように、ドイツ的立法君主制を目標とするものであり、天皇をいだく強力な行政部を議会に対して優越的な地位に置くことを核心とするものであった(略)」と。「明治14年の政変」について、佐藤功は、次のように記述します。「明治14年3月、大隈重信がイギリス的な議院内閣制・政党政治を内容とする憲法を制定すべきこと、また速やかに議会を開設すべきことを強く主張するに至ったので、岩倉具視を指導者とする政府は、大隈一派を政府から追放するとともに、明治1410月の勅諭によって、明治23年を期して議会を開設すること、それまでに「立国ノ体」に従う憲法を制定することを明らかにした。」これを受け、伊藤博文がプロシャ憲法をモデルに欽定憲法の制作に取りかかるのです(佐藤功、前掲書、40頁)。

 

確かに英国型議会が否定されたのでしょうが、これにより「列侯会議」的なものだけで国家運営を行うことも否定されたと言えましょう。

 

 

 

 佐藤功は、明治憲法について、「あくまで天皇の統治権総攬者たる地位が確保され、」「非民主主義的な要素がなお強く維持されていた」とします。明治憲法に非民主主義的要素が強く維持されていたことが、「軍国主義的勢力の支配の下に、明治憲法に僅かながらも存した自由主義・民主主義的な要素も抹殺され、その結果が遂に太平洋戦争の勃発およびその敗戦となったのである。」とします。しかし、「そこには議会の設置・国務大臣による輔弼の制度・司法の独立・臣民の権利義務の保障など、近代的立憲政治の原則が取り入れられてあり、それらはもとより民主主義的な意義を持つものであった」とも記述しています(佐藤功、前掲書、41~42頁)。民主主義的要素は、「広く会議を興し」と結びつきやすくなるのでしょう。

 

 

 

 明治憲法は、主権在民をうたってはいませんが、この憲法の第5条「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」により議会制度が開設されたのも事実です。伊藤博文は、明治21年(1888年)4月に枢密院が設置されると初代議長に就任し、憲法草案の逐条審議で、「我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」として、「君権を尊重して成るべく之を束縛せざらんことを勉めたり」と述べているが、同日午後の会議では、「憲法政治と云えば、即ち君主権制限の意義なること明らかなり」と断言し、立憲主義の要素があることにも言及しています。初代貴族院議長となった伊藤は、第1回帝国議会(明治23年(1890年)1129日~明治2437日)の閉会に際して、(正式な議事ではないとしつつ)演説を行いました。その最後に「願わくは諸君と共に此議長に於いて一斉に 天皇の万歳を唱えたいと思いますが如何でございますか。天皇万歳。」とし、議員一同「天皇万歳」と「呼」んだ後、「憲法万歳」と「呼」んだのは、意図的かどうかは別として、なかなか象徴的ではないかと思います。(瀧井一博編『伊藤博文演説集』講談社、2011年)

 

 

 

 以上から、次のようなことが言えるかと思います。

 

※「五箇条の御誓文」制定前後において、徳川幕府後の政体について、上下院の英国型議会の導入を考える勢力は、土佐藩の後藤象二郎、坂本龍馬らをはじめとして確実に存在した。

 

※「五箇条の御誓文」制定時において、「列侯会議」的対応の必要性も存在した。

 

※「明治14年の政変」は、英国型議会制度の導入を否定したが、ドイツ的立憲君主制の中で、議会制度の導入を図ることとなった。

 

※木戸孝允の「列侯会議」の文言を削り「広く会議を興し」との修正により、「明治14年の政変」後も、「五箇条の御誓文」が日本の議会制度導入の根拠の位置づけとなり得て、「衆議院要覧」「貴族院要覧」の冒頭にも記載されるようになった。

 

※『帝国議会議事堂竣功式典記録』の記述、昭和天皇の人間宣言も、こうした経緯により形成された「五箇条の御誓文」の位置づけに基づくものと考えられる。

 

※大日本帝国憲法の民主主義の不十分さを意識する場合には、「五箇条の御誓文」の公議主義は、限定的なものであったという位置づけがなされ得る。

 

 

 

 明治神宮外苑聖徳記念絵画館には、天神地祇御誓祭で三条実美が御誓文を読み上げる光景を日本画家の乾南陽が描き、昭和3年に旧土佐藩主の山内家が明治神宮に奉納した『五箇條御誓文』と題した絵画が展示されています。次のホームページでその絵をみることができます。(3月のところ。「12.五箇条御誓文」の絵があります。)

 

http://www.meijijingugaien.jp/art-culture/seitoku-gallery/important/021335.html

 

 

 

聖徳記念絵画館