○議員立法の提出件数等の推移

 

 

 

 まず、議員立法の提案件数等の推移を示す。

 

(国会会期の長短があるため、暦年の1年で区切っている。ただ、12月に召集され、翌年に続く会期の国会の件数は、翌年の件数としている。件数等のデータは、特に記載がなければ全ての図表において参議院事務局発行の国会ごとの『参議院審議概要』(http://www.sangiin.go.jp/japanese/kaiki/index.html)及び衆議院法制局のホームページの衆法情報(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/housei/html/h-shuhou.html)による。特に記載がなければ、全ての図表において「提出」件数には、継続法案(国会法第47条第2項、同法第68条ただし書の「案件」、「議案」)を含まず、「成立」件数には、継続法案が成立したものを含む。平成28年の提出(衆法+参法)の198件には、維新の参法101件を含む。)

 

昭和22年(1947年)の国会開設以降の、議員立法の提出等の推移は、図1のとおりである 。この推移については、いくつかの分析がなされているが、岩井のもの(岩井奉信『立法過程』東京大学出版、1993年。) を中心に、簡単に説明したい。

 

 

 

 昭和30年(1955年)の左右社会党の統一、保守合同、発議要件に関する国会法改正までは、一人で議員立法が提出でき、多数派工作も多様にできたこと、いわゆる政府依頼立法(昭和26年に31件、27年に15件、28年に1件) が加わっていること等より、昭和27年(1952年)の175件の提出(衆法+参法)、102件の成立をピークに高い数値を示している。

 

発議要件の国会法改正は、昭和30年(1955年)になされたものである。川人は「議員立法の衰退の原因を1955年の国会法改正における議員立法提出要件の過重化に求める通説を批判的に検討する。(略)むしろ、大蔵省が嫌がっていた予算を伴う議員立法を、議員立法としてではなく、各省、大蔵省と自民党政調部会との間の調整を経た内閣提出法律案として行うように法案決定過程が整備されていったことが、議員立法衰退の主たる原因であることを実証する。」としている (川人貞史『日本の国会と政党政治』東京大学出版、2005年)

 

 

 

  国会法改正の後、提出件数は急減したというわけではなく、5カ年平均で、昭和30年代は年間100件程度、同40年度は同70件程度で推移する。これに対し、成立件数は、同30年(1955年)の年間50件から同33年(1958年)には19件にというように、落ち込んでおり、自民党、社会党の2大政党化での党議拘束の進展が伺える。この時期は、自民党の絶対多数下、野党の議員立法の提出は、閣法への対案の位置づけを強めたものと考えられる。

 

 

 

  一方、成立件数が年間一桁から昭和45年(1970年)以降20件近くに回復する背景について、岩井は、「これらの多くは60年代を通じて問題が表面化した環境、福祉関係の法案であり、その多くが委員長提出法案として全会一致で成立しているのは注目に値する。」 としている。

 

 

 

  昭和61年(1986年)~平成元年(1989年)の自民党優勢期を挟むが、昭和49年(1974年)~61年(1986年)の与野党伯仲期から平成元(1989年)~5年(1993年)の衆参ねじれ期(参議院で野党勢力が与党勢力を上回る)にかけて、野党勢力の増加に伴い、議員立法の提出増があってもよいと思われる時期に、提出件数の右肩下がりの減少が見られる。岩井は「野党がその影響力を、自ら議員立法を提出し成立させることではなく、もっぱら内閣提出法律案や予算案に反映させようとした結果であると考えることができる。ただ、内閣提出法律案に対する修正率の推移をみると必ずしもこの時期に修正率が増加したわけではない(略)。その意味では、野党の影響力は国会審議を通じてよりも法案の上程以前に行使されていたということができるのである。」 としている。

 

 

 

  昭和57年(1982年)以降の議員立法の提出等の推移を抜き出すと、5年平均で、平成2年(1990年)あたりを底に平成13年(2001年)に向けて明確な右肩上がりとなり、その後高止まりしている。この状況に注目する 。類型別検討(ここではその詳細は省略する)を行うと、まず右肩上がりの時期において、野党の政策提案に関するものの件数の伸びが目につき、次に与党が関わるものの伸びが認識されるが、平成13年以降においては、「何々基本法」、「何々推進法」という名のものの拡大も目につくのである。