○元貴族院議場であった参議院議場の「四民平等」のレリーフ

 

本会議が開かれる議場は、議事堂本館の2階にあり、3階までの吹き抜けとなっています。3階は傍聴席となっています。設計に当たっては特に反響防止に配慮し、柱や壁には石材を使用せず、なるべく木材(欅)を使用しています。議場全体に凹凸を付け、細部にまで彫刻を施しています。

記者席手摺りの前面には「士農工商」を表したものが彫刻されています。これらが横並びで、「四民平等」という、明治政府の政策を表現したものとされます。

最近の教科書では、「士農工商」、「四民平等」という言葉は使われなくなっています。教科書を扱う東京書籍のホームページでは、その理由の一つは、身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でないということ、もう一つは、身分としての上下関係のとらえ方が適切でないということとされますが、詳細は、そちらのホームページをご覧ください。(東京書籍の教科書では、平成12年度から「士農工商」という記述をしておらず、平成17年度から「四民平等」という記述をしていません。)

https://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/e/syakai.html#q5

現代から見れば、「四民平等」という語句は不適切とされるかもしれませんが、明治政府は、そうした語句の概念で政策を実施していたのは事実です。

コトバンク(https://kotobank.jp/)の小学館日本大百科全書(ニッポニカ)の「四民平等」の記事を見ると、次のようになっています。「明治維新後、中央集権国家形成のため、旧来の士農工商(四民)の封建的身分制度が、新政府によって廃止されたこと。1870年(明治3)農民や町人が姓(苗字(みょうじ))を名のることを許され、また翌年、穢多(えた)・非人などの差別的呼称と身分を廃止して被差別民を「解放」するなどの措置がとられたのち、公卿(くぎょう)と諸藩藩主を華族、武士を士族、農工商三民を平民という呼称に改め、居住・職業・結婚などの自由も、華・士族、平民間で認められ、原則として、国民はすべて平等に扱われることになった。しかしこの四民平等の措置は、現実には国民の間の身分差別を解消しなかったうえ、実質的には、国家権力の確立の過程で、天皇を頂点とする新たな国民支配のための身分秩序の再編を意味する結果になった。[石塚裕道] 」

これは同時に行われた「廃藩置県」の施策にも関連すると考えます。同じくコトバンクのブリタニカ国際大百科事典小項目事典の解説では、「廃藩置県」とは、「明治4 (1871)7月,封建割拠の基となる藩を廃し,府県に改めることにより,封建制度が廃止され,日本が近代的集権国家体制となったこと。王政復古以来,明治新政府の指導者たちは,欧米先進諸国の集権国家体制にならい,民族国家の創出を目指して封建諸藩の廃止を計画していた。長州藩の指導者木戸孝允はこの政策の推進に最も積極的で,その主張により,明治2 (1869) 年版籍奉還が実現したが,なお,実質的には藩体制が存続した (→藩治職制 , 府藩県三治制 ) 。そこで政府は,さらに実質的廃藩に踏切るための準備をすすめ,同39月藩制改革を命じて課税権を確立し,(略),7月詔勅をもって全国諸藩の制度的廃止を布告した。政府は,反対する藩は武力で討伐する決意を有していたが,意外にもこの布告は抵抗なしに受入れられた。その素因としては,幕末以来,財政窮迫に苦しむ藩が多く,政府が債務を継承するとの条件に,異議をいだく理由がなかったことにもよる。この結果,全国は府県の行政単位に統一され,旧藩知事はすべて華族に列し,東京移住を命じられ,代って政府から新たな府知事,県令がそれぞれ任命されて,ここに集権国家体制が確立した。 」

確かに華族と平民の婚姻が認められたりしていますが、華族を中心とした機関である貴族院の議場に、「四民平等」の「士農工商」のレリーフがあると改めて思うと、違和感を抱かなくもありません。諸藩の体制を廃止し、新体制を作るには、「四民平等」が必要だったでしょうし、旧藩主を華族とすることも必要だったのでしょうが。

そんなこともあり、議事堂が竣功した昭和11年(1936年)の貴族院の構成を調べました。

貴族院議員については、貴族院令(明治22211日公布の勅令)の第1条に次のように定められています。(大正14年の第四次改正後のもの)

第一条 貴族院ハ左ノ議員ヲ以テ組織ス

 一  皇族

  二 公侯爵

  三 伯子男爵各々其ノ同爵中ヨリ選挙セラレタル者

  四 国家に勤労アリ又ハ学識アル者ヨリ特ニ勅任セラレタル者

  五 帝国学士院ノ互選ニ由リ勅任セラレタル者

  六 北海道各府県二於テ土地或ハ工業商業ニ付多額ノ直接国税ヲ納ムル者ノ中ヨリ一人又ハ二人ヲ互選シテ勅任セラレタル者

これを見ると、第4項から第6項までは、華族ではない者となります。実態は、グラフのとおりです。皇族はほとんど登院しないということですので、実際は、約半数が華族以外の貴族院議員であったことがわかります。

(衆議院・参議院編『議会制度百年史 議会制度編』(大蔵省印刷局)より。)