○白亜の殿堂の傷

 

 

 

 国会議事堂本館の参議院の東北階段の、一階上り口の手摺りの部分、橋で言えば欄干に当たる部分の頭のところが図にあるように欠けています。

 

  

 

これは、昭和11年の議事堂完成直前に乱入した2・26事件の反乱軍が、武器を備えつけるために壊した跡だという説があります。この説がもっともだと思われるのは、欠け方です。いかにも乱暴に叩き壊したような形の欠け方だからです。しかし、そうしたことを記した文献は見つかっていません。そして実は、中央塔を挟んで対象の位置にある衆議院の東南階段の同じ部分も欠けているのです。この間は200メートルほどあります。両方に武器を備え付けるために、意図的にそのようにした可能性はなくはありませんが、叩き壊したような欠け方の説得力は減じてしまうかと思います。更に「反乱軍」としての位置づけられた者が行った跡の修繕が竣功までに行われていないことも不自然な気がします。

 

 

 

ここに第二次世界大戦中の武器製造等のための「金属回収」の話があります。

 

「両院事務局は金属回収本部に対し、議事堂内の金属を回収することは拒否したものの、全く手ぶらで帰しては回収本部側のメンツが立たなくなるのではないかとして、この階段についていた『擬宝珠』を持たせる(あるいは回収本部側がもぎ取った)ということを、かつてだれからともなく聞いた記憶があるが、その真偽のほどは定かではない。」(山賀辰夫『参職記』平成9年、223頁。)

 

 金属回収であれば、金属回収に国会も協力したということで、ここを修繕せず、そのままにしていた意味はあると思いますし、衆参で同じ場所のものを提出する理由も立つと考えます。

 

 更に、次のような話もあります。

 

「・・・戦争が起きるときに、金属の回収ということで、シャンデリヤをみんな回収するというんですね。そのときに小林書記官長のほうから、戦争をやるからには勝たなきゃいかんでしょう。勝って、世界各国を集めて講和会議をするのは議事堂しかないじゃありませんか。その議事堂のシャンデリヤをもっていったら、どうするのです。ということを言って、それでシャンデリヤは撤去しないということになった。(略)小さいものはどうですかね。シャンデリヤとか大きいものは反対してしなかったので、議事堂からはあまり撤去しなかったのじゃないですか。」(社団法人霞会館『貴族院職員・懐旧談集』昭和62年、448449頁。河野義克元参議院事務総長の話。)

 

 シャンデリヤと比べれば小さなものでしょうし、「あまり撤去しなかった」と言うのであれば、少しは撤去したのかもしれませんから。

 

 戦争中に多くの小学校の二宮尊徳の銅像が回収され戻ってこなかったということがある中で、金属回収の跡を残しておくというのは、一つの判断としてあったと思います。貴族院から引き継いだ参議院も、戦争の痛みを国民と共有するために、そのままにしておいたということなのでしょうか、あるいは華美な装飾を終戦後に作る余裕はなかったということだったのでしょうか。

 

 

 

 そのうちに、この欄干の部分にあった『擬宝珠』の姿は、写真がないこともあり、人々の記憶から消えていきました。議事堂の参観案内をする衛視の中にも、どんな形のものがあったのか語れる人はいなくなりました。

 

 

 

 平成28年(2016年)、この話を管理部でしたところ、営繕課から下のような『擬宝珠』を付けた欄干の図が出て来ました。残された柱の部分の文様とも合致します。かなり立派な、トロフィーのような『擬宝珠』が取り付けられていたのでした。衛視のいる警務部とも情報を共有しました。これなら、金属回収したと言えるようなある程度の大きさのものとも思えます。明確な記録等には辿り着いていませんが、金属回収説が有力なのではないかと思います。そして、何らかの積極的な、あるいは消極的な理由により修繕されず、放置され、21世紀を迎えてしまったのでしょう。

 

 白亜の殿堂の傷は、21世紀に残された、悲惨な時代の証人なのかもしれません。

 

(確認された『擬宝珠』の図)