◎『スミス都へ行く』

 

 

 

 フランク・キャプラ監督の1939年のアメリカ映画『スミス都へ行く』は、私の一番好きな、というか大切な映画です。第12回アカデミー賞で原案賞を受賞しています。

 

 ジェームス・スチュアート演ずる主人公スミス氏は、地方のボーイスカウトのリーダーでしたが、死亡した上院議員の代わりに上院議員に担ぎ出されます。スミス氏はそこで政治の腐敗に直面し、悩んだ末に、スミス氏の人柄に心打たれたスタッフにも助けられ、愚直にこれに対決するという話です。

 

 

 

 国会事務局の「若手」職員だった当時、レンタルビデオ屋さんで、偶然、ジェフリー・アーチャー氏作の英国の首相の座をめぐる政治ドラマ『めざせダウニング街10番地』を手にして見て以来、政治物のドラマを探して見ていましたが、それらの中で、一番感動したものです。その後ワシントンに行った時には、映画で登場するリンカーン記念館にわざわざ行き、大統領像の前で写真を撮ったりしています。

 

 

 

 この映画について、予期せぬところで耳にする機会がありました。あの『男はつらいよ』の「寅さん」に関係しているという話です。山田洋次監督の『東京家族』という映画は、山田監督が文化勲章受賞後初の作品で、81作目、監督50周年の作品とされます。東日本大震災に関係し、その後の日本の家族の姿を、小津安二郎の『東京物語』のリメイクの形で描くと書かれており、興味を持って見ましたが、私の住む横浜の風景が重要なポイントを占めていることもあり、大いに感動しました。

 

 この映画に関連し、アップル社がポッドキャストで、「山田洋次:Meet the Filmmaker」 (Apple Inc2013.1.9)というのを配信し、その中に、次のような話がありました。

 

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(山田監督)

 

・・・一つ今の話を聞いてて思い出した昔話をしますけれども、寅さんの「夕焼け小焼け」、貴方見たって言ったね、あれに、宇野重吉さんという俳優が出ているでしょ、あの画家に、絵描きさんになってね、・・・あの人は戦後の日本の新劇界の大変なリーダーで、大変に大きな仕事をした人なんだけれども、大巨匠なんだけれども、あの人があの映画に出演した後で、僕とたまたま食事をする機会があって、彼がしみじみと僕に言うのね、僕はたぶんその頃日本の映画界もだんだん落ち目になって来て、そんな愚痴をこぼしたのかな、・・・。

 

あの宇野さんがね、あの人が、戦争中新劇運動なんて政府にめちゃくちゃに弾圧されちゃって、何度もあの人達は治安維持法で逮捕されたりなんかして、ひどい目にあっていた、そして食うや食わずになっていた、そして「まもなく徴兵が来るだろう、そしたら俺は戦争に行かなければならないのだろう。そんな絶望の日々、俺は死のうと思った」というのね、まあ、青年ってそういう衝動にかられることはしょっちゅうあるわね。そういう暗い時代にあった志の高い宇野青年としては、「死のうと思った、まじめに思ったんですよ」と言うの。

 

で、「下宿を整理して、渋谷の町に出て、繁華街を見納めのつもりで歩いていたら、映画をやっている。そんなかに『スミス氏都へ行く』、監督はフランク・キャぺラという映画があって、なんかね、見たくなって、いやどうせ死ぬんだけれど、その前にこの映画を見ようと思った」と言うのね。

 

「キャぺラの映画見て、・・・」、皆さん是非この映画見て欲しいんだけれど、フランク・キャペラの代表的な映画で、つまり、アメリカの民主主義というものを、本当に心から謳歌しているっていうかな、民主主義の精神を歌い上げた、まあキャペラの名作で、アメリカの映画史の中でも、大変高い位置を持っているものなんだけれど、「この『スミス氏都へ行く』を見終わった後で、私はね、あ、まだ死ぬことはない、生きていこうと、この世の中は生きるに足るんだと、なんとかなるんだと思ってね、死ぬのを止めましたよ」というのよね。「だから山田さんね、映画って言うのはね、この、遠く海を隔てた、地球の裏っ側に住んでいる、一人のアジアの東洋の若者を絶望から救う、どころか、命をつなぎとめるだけの力を持っているんですよ、そのためだけでも、この映画は、キャペラの映画は作られるだけの意味をあったんだと思っています。だから、あなたは、山田さん、映画を作ることに絶望してはいけません」と、「一生懸命作ってくださいよ」と彼が僕に言ったこと、一生忘れまいと思ったもんですけどね。映画って言うのは、そういう気高い力まで持っているだということですよね。

 

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 『東京家族』を見て、寅さんの第17作から『スミス都へ行く』の話が出て来たこと自体、驚きでしたが、ここで一つ気になったのが、ナチスドイツの侵攻に対抗すべく、アメリカの民主主義のすばらしさを歌い上げた国策映画とも言われる『スミス都へ行く』を、宇野青年が第二次世界大戦の最中に、渋谷で見たということです。調べてみたら、確かにこの映画の日本公開は、1941年でした。

 

 

 

 12月に真珠湾攻撃が行われる1941年に、このアメリカ映画は渋谷で公開されていたのです!

 

 

 

 私の場合、日本の歴史の勉強が、古墳時代から幕末、明治維新、大正デモクラシーぐらいまでで時間切れで、どうも戦前・戦中の政治・社会のイメージは画一的でしたが、参議院の職員をやっていると、時として貴族院時代の事象に触れることもあり、戦前・戦中の、今までのイメージより多様な動きということを感じるようになってはいたのですが、まさか、真珠湾攻撃の直前に、この映画が日本で公開されていたとは思いませんでした。確かにこれが、戦前に日本で公開された最後の主な英米映画だったようではありますが。

 

 

 

 戦後、参議院の事務総長を務めた河野義克氏は、貴族院時代に、国際連盟を脱退した後、IPU(列国議会同盟)を通してアメリカと和平を交渉したらどうかと議員に提言したとのことです。黒澤明監督の戦時中の映画『一番美しく』を見ても、登場人物の他人を思う優しさは、今でも素直に受け入れられます。『スミス都へ行く』を1941年の渋谷で公開することに関わった多くの日本人がいたことも事実でしょう。戦前・戦中の政治・社会について印象が変わってきました。しかし、なぜ、ある程度の多様性を持っていたにも関わらず、あのような破滅の道を歩まざるを得なくなったのでしょうか。そこはもう少し私自身、いろいろな文献等にあたってみる必要があるのかなと思っています。

 

 

 

 1941年に日本で公開された『スミス都へ行く』は、残念ながら日本の対米戦開戦を止めることはできませんでしたが、宇野重吉青年の命をつなぎとめ、山田監督を激励し、寅さんを全49作の国民的映画に育てあげ、『東京家族』で東日本大震災後の人々のあり方を描かせることになったと言えるかもしれません。

 

 

 

 そんな映画ですので、是非多くの方々に見ていただきたいと考えていました。しかし、レンタル屋さんであまり見かけなくなって、ちょっと寂しい思いをしていたのですが、ここ数年で、ネット通販で比較的安価で購入できるようになってきました。

 

 

 

 そこで、職場の新人職員に、このDVDをプレゼントし、1ヶ月後ぐらいに感想を寄せてもらうようにしはじめました。4年ほど続いています。私としては、かなり昔の、スミス氏の時代から、議会では皆が悩みながら、あれこれ必死に議論して来たことと、それを支えるスタッフの役割を感じて欲しいと思っています。

 

 

 

 また、これは、シティズンシップ教育にも有用ではないかとも思っています。自分事として問題に全身で取り組むスミス氏の姿は、かっこ悪いのですがかっこ良いのです。それがとても感動的なのです。議会について、政治について考える良いきっかけかと思います。

 

 

 

 ご覧になっていない方は、是非。